Contents
◎Movie Review
『The Jazz Loft』
◎Featured Artist & Recommended Albums
Thelonious Monk『The Thelonious Monk Orchestra at Town Hall』, 『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall』, 『Straight, No Chaser』
◎Coming Soon
「Peter Barakan’s LIVE MAGIC! 2021 ONLINE」
◎PB’s Sound Impression
“DYNAMIC AUDIO 5555 4th floor”
構成◎山本 昇
Introduction
誰もが正しく英語を発音できるようになる本
コロナの影響でしばらくお休みしていたA Taste of Musicですが、久々に更新することができました。今日は、東京・秋葉原にあるオーディオ・ショップ「ダイナミックオーディオ5555(フォー・ファイヴ)」の4階にやってきました。このフロアを担当する島健悟さんにも、後ほどお話を伺いたいと思います。今回は、注目の映画『ジャズ・ロフト』のご紹介から、この映画にちなんで、セローニアス・マンクの特集をお送りします。また、今年もオンラインで開催される僕の「LIVE MAGIC! 2021」についてもお話ししましょう。どうぞ最後までお付き合いください。
さて、いきなりではありますが、ここで最近出版した僕の本を紹介させてください。『面倒な発音記号がなくても大丈夫 ピーター・バラカン式 英語発音ルール』(駒草出版)はタイトルのとおり、いわゆる発音記号を使わずに、誰もが正しい英語の発音ができるようになることを目指し、2009年にNHK出版から刊行した『猿はマンキ お金はマニ』を改訂したものです。この改訂版には、多くの日本人が苦手な人名や国名、地名などの「固有名詞発音リスト」も付録として収録していますので、ぜひ参考にしてください。
そもそも、僕が英語の発音に関する本を書こうと思ったのは、2003年から出演しているNHKの海外向け番組『Begin Japanology』がきっかけでした。2014年からは『Japanology Plus』として放送されているこの番組は当初、日本人のゲストにも英語で話してもらっていました。そこそこ語彙を持ち、文法もわりとしっかりした人でも、発音が今一つ良くないため、失礼ながら僕が正しく言い直す必要がありました。英語が得意そうな人でも発音が悪いのは、制度的な問題としか考えられません。そこに気付いて書き始めたのが『猿はマンキ お金はマニ』だったんです。おかげさまで版を重ねたものの、海外から日本への観光ブームのときには絶版となっていたので、せっかく役に立ちそうなのにもったいないなと思っていたところ、駒草出版から再出版の話をいただきました。まぁ、東京五輪で活用してもらおうという目論みは見事に外れてしまいましたが(笑)。
この本で最も訴えたいのは、帯にも記しているとおり、「ローマ字は英語ではない」という最も基本的なルールです。英語は一部の例外を除いて、ローマ字発音をしてはダメなんです。ローマ字は、日本語をアルファベットに置き換えるために考案されたもので、英語の発音を日本人に伝えるためのものではありません。この本では英語の発音を、アルファベットの26文字を駆使しながら、いわゆるローマ字読みではない方法で日本人の皆さんに分かりやすく表記したつもりです。中には、どうしてもアルファベットで表記できない音があり−−−英語にはこれがすごく多いのですが−−−そうした音は、「*」で表記したりしていますので、なんとかニュアンスを掴んでいただきたいですね。カタカナでも併記していますが、相当無理があります(笑)。皆さんには、できるだけアルファベット表記を参照して頑張ってほしいと思います。
A Taste of Music読者の皆さんに、特に読んでほしいのは外国人のファースト・ネイムの正しい発音を表記した付録でしょうか。音楽関係でも個人名の間違ったカタカナ表記がたくさんあり、僕にとってはいつも堪えがたい想いに駆られています(笑)。音楽関係者の方には、ぜひ1冊お持ちいただき、正しい表記を心掛けていただけたらと思います。苗字は確かに発音が難しいものもたくさんあります。この本を読んでも分からないものは、SNSや公式ホームページからメイルをもらえれば、すぐにお教えします。
昨年から、義務教育では小学校3年生から英語を学ぶことになりました。この本は漢字も出てくるので大変かもしれませんが、できるだけ若い人にも、本当の発音は違うことを知ってほしいですね。こうして僕が英語発音について苦言を呈すると、「外国人だって日本語の発音がおかしい人がいるじゃないか」と反論されることがありますが、そういう人は読まなくてけっこう。無理強いはいたしません(笑)。外国人に通用する発音で英語を話したい人に、ぜひ読んでほしいと思います。
Movie Review
写真家ユージーン・スミスの根城で繰り広げられた夜ごとのジャム・セッション
『ジャズ・ロフト』
10月15日から、注目すべき映画の上映がスタートします。アメリカ人の写真家、ユージーン・スミスが根城としていたマンハッタンのロフトに集い、夜ごとセッションを繰り広げるジャズ・ミュージシャンらの様子を中心に描いたドキュメンタリー作品『ジャズ・ロフト』です。ユージーン・スミスと言えば、日本では1970年代にフォト・ジャーナリストとして水俣病患者を捉えた写真も有名で、このあたりの活動は、ちょうど9月から上映が始まったジョニー・デップが製作・主演した映画『MINAMATA−ミナマタ−』に描かれています。この映画の冒頭にもニュー・ヨークのロフトのシーンが出てくるのですが、彼がここに居ついたのは1950年代の後半のことで、70年代の前半まで住んでいたようです。『ジャズ・ロフト』はだいたい1960年前後の話です。
ニュー・ヨークのダウンタウンにあるロフトと言うと、1980年前後からでしょうか、そこに住むのはけっこう洒落たことになっていました。ミュージシャンやアーティストなどの多くがソーホーあたりのロフトに出入りしていました。本来は住居用ではない、商業地にあるビルのワン・フロアのことを、当時はロフトと呼んでいたのです。本当は住んではいけないはずなんだけど、住んでいる(笑)。まぁ、ユージーン・スミスの場合は写真家だから、自分のオフィスとしても使っていたわけです。当然、暗室もあるし、至るところにものすごい枚数の写真がある。そして、同じビルの別のフロアにはジャズ・ミュージシャンも住み込んでいます。
1950年代のニュー・ヨークのことだから、ジャズは市場としても小さくなかったと思いますが、とにかく当時のジャズ・ミュージシャンはジャム・セッションする場所を常に探していました。ロフトのようなガランとした空間で演奏できると分かると、すぐに口コミで広がって毎晩のようにいろんなミュージシャンが入れ替わり立ち替わりやってきたそうです。一口にジャズと言っても、ニュー・オーリンズ・スタイルのいわゆるディクシーランド・ジャズもあれば、スウィング・ジャズやビ・バップもあり、この時期にはぼちぼちアヴァンギャルド・ジャズも始まろうとしています。実に様々なミュージシャンが誰彼構わず集まって、その日にやって来た者同士でジャム・セッションを繰り広げ、即興が延々と続く。そういう場所になっていたんですね。
ユージーン・スミスもジャズが好きで、オーディオにも凝っていたようです。彼の部屋にはなぜか、ポータブルなオープン・リールのテープ・レコーダーが複数台ある(笑)。当時は珍しかったと思いますね。そして、周りの部屋のあちこちにマイクを仕込んで−−それこそ天井に穴をあけたりして−−レコーダーを回しっぱなしにして、人の会話やラジオの音でも何でも、ずっと録音しているんです。もちろん、そこにはジャズ・ミュージシャンたちの演奏も残されているのですが、ただ自分で聴いて楽しんでいたらしく、ブートレグのレコードを作って売ったり、無断で放送したりといったことは一切なかったようです。興味の赴くままに何でも録音している−−−不思議な人ですね。
『ジャズ・ロフト』には、ユージーン・スミスがロフトに移り住むようになる前のエピソードも出てきます。第二次世界大戦では『ライフ』誌などの従軍写真家としてサイパンや硫黄島などの戦地に赴いています。27歳のとき、沖縄戦を取材中、戦闘の場面では身を伏せていなければならないのに、立ったほうがいい写真が撮れると思って撮影していたところ、砲撃を受けて大怪我を負い、2年ほど仕事ができなくなってしまいます。その後、ニュー・ジャージーののどかな町で家族と暮らしながら、『ライフ』誌を中心に様々なテーマの写真を撮り続けていましたが、写真の扱いや誌面の構成などを巡って編集部との軋轢が生じるようになります。やがて1957年になると、生活を変えたくなったのか、家族と別れて移り住んだのがマンハッタンの生花問屋街にあるロフトだったのです。
彼はすごくアーティスティックな写真家で、特集の組み方やレイアウト、写真の焼き方などについて、編集部の意見と対立することもしばしばで、ときにはケンカもするし、嫌気がさして仕事を放り出して大酒を呑んでいたり……。雑誌社との関係は上手くいかないことも多かったようですね。そうこうしているうちに仕事は減って、経済的にも困るようになってしまいます。この映画は彼のそういうアーティスティックな悩みも描いていてとても面白い。こうした葛藤は、写真家もミュージシャンも同じように抱えているものでしょうからね。
部屋の位置関係は今一つよく分からないんだけど(笑)、同じビルのロフトにホール・オーヴァトンというジュリアードで教えているピアノの先生が住んでいました。編曲家でもある彼は、いろんな仕事をこなしていて、音楽業界でも評価の高いミュージシャンでした。彼の部屋にはピアノがあり、レッスンを受けるために生徒たちもやってきます。あるとき、このロフトから聴き覚えのあるピアノの音が流れてきました。もしかして、これはセローニアス・マンクじゃないか。そう、確かにマンクがホール・オーヴァトンの部屋に来ていたのです。1959年、ニュー・ヨークのタウン・ホールでコンサートをやることになっていたマンクが、自分の曲を10人編成のバンドで演奏するための編曲やリハーサルをホール・オーヴァトンと行っていたんですね。『Thelonious Monk Orchestra at Town Hall』としてアルバムも出ているこのコンサートのオーケストラは、普通のオーケストラとは全然違う面白い編成で、サックスやトランペットのほか、チューバやフレンチ・ホーン、トロンボーンを含むホーンのアンサンブルとなっています。まずはお酒を呑んでから始まるリハーサルは夜通し行われていました。ピアニストの10指を10人のミュージシャンに割り当てて編曲するという、とても興味深い試みです。
サックス奏者のズート・シムズも、ロフトによく足を運んだ一人です。その様子を見ていた人は、エネルギーに満ちあふれたズート・シムズは寝ることも忘れ、他のミュージシャンがダウンしてもなお、3日間ぶっ通しで吹き続けていたと、伝説のような話を語っています。彼は僕にとって、たくさんの有名なジャズ・ミュージシャンの中の一人で、名前は知っているけれど、どんなサウンドを持っている人なのかよく分かりませんでした。ただ、よく覚えているのは、僕が1974年7月に初めて東京に着いたその日に、会社の机の上に置いてあったフィービー・スノウのファースト・アルバム『Phoebe Snow』です。全く知らない新人歌手でしたが、聴いてみたらものすごく好きな作品でした。そのアルバムの中の1曲「Poetry Man」にえらく雰囲気のいいサックス・ソロがあって、クレジットを見たらズート・シムズだったんです。でも、『ジャズ・ロフト』を観ると、若い頃の彼は他のサックス奏者の間でも伝説の人物だったようですね。サックスを口にくわえた途端に創造性豊かな即興がどんどん出て、何時間吹いてもそれが継続する。ほとんどサイボーグと思えたことでしょう。
また、同じくロフトの住人だったドラマーのロニー・フリーは、麻薬中毒により入院していたニュー・ヨーク郊外の精神病院カマリロでの体験なども語っています。このカマリロは、チャーリー・パーカーも入院していて、「Relaxing at Camarillo」という曲を残しています。
ロフトで展開されたリハーサルやジャム・セッションの様子を録音していたユージーン・スミスは、もちろん写真も一緒に撮っています。彼はミュージシャンから一切警戒されない写真家だったんですね。映画でも、関係者のインタヴューなどは映像で紹介されていますが、訪れたミュージシャンたちは彼が撮った写真を上手く使って構成しています。『ジャズ・ロフト』は、ジャズ・ファンをはじめ広く音楽ファンにも面白く観てもらえる映画だと思います。
僕はこの映画を「Peter Barakan’s Music Film Festival」という音楽映画祭でプレミア上映し、すでに何回も観ました。最近は映画を自宅のテレビやコンピューターの画面で鑑賞することが多くなりましたが、やはり映画館の大きなスクリーンで観るのとは全然違います。音楽をここにあるようなオーディオで聴くのとコンピューターのスピーカーで聴くのでは全く世界が違うのと同じように、クオリティの違いは明らかです。大きな画面で観ると、その中にあるいろんな細かい情報にも気付きます。また、繰り返し観ていると、余裕をもって受け止められるから、見逃していたことにも目が行くようになって、ますます楽しくなる。やっぱり、映画は映画館で観たいものだとつくづく思いました。
今年の7月に有楽町で始まり、京都や大阪でも開催してきたこの音楽映画祭は、10月に横浜で、また11月には福井、12月には瀬戸内でも開催予定で、僕もトーク・ショウを行います。作品の数は少なくなりますが、お勧めの作品を上映しますので、お近くの方はぜひお越しください。
Featured Artist
Thelonious Monk
「ユニークな演奏スタイルを持つ偉大なコンポーザー」
いま、最も偉大なジャズの作曲家と言えば、多くの人がデューク・エリントン(1899年生まれ)、セローニアス・マンク(1917年生まれ)、チャールズ・ミンガス(1922年生まれ)の3人を挙げるでしょう。彼らはプレイヤーとしての才能もさることながら、ジャズの教科書のような曲を作曲しました。3人の中で、エリントンは活動した時代も早くて曲も分かりやすいかもしれませんね。個人的な感覚をお話しすると、彼の良さが分かるようになったのはずいぶん後のことでした。エリントンの曲と言うとホテルのラウンジでBGMのように流れていることが多かったりして、失礼ながらあまり格好いいイメージはなかったんですよ。もちろん、メロディを聴けば誰でも知っている曲がたくさんあるし、それらをあの時代に作ったことがいかに画期的だったかをのちに知って認識を新たにしました。
僕にとって、セローニアス・マンクとの最初の出会いはテレビでした。ロンドンに住んでいた頃で、確か「Jazz 625」というBBCの番組だったと思います。当時はまだチャンネルが一つしかなかったBBCは、テレビの走査線の数が405本でした。日本はアメリカと同じNTSC方式なので525本。イギリスは60年代の半ばに、チャンネルを増やしたときにPAL方式を採用して625本になりました。番組名はこの数字にちなんでいます。まぁ、いまで言うところの4Kみたいなものでしょうか(笑)。で、何しろこの頃のテレビのチャンネルはBBCが二つと民放が一つ、全部で三つしかありませんでしたから、知らない番組はほとんどない時代です(笑)。この「Jazz 625」は必ず観ていたわけではないのですが、たまたまつけたら出ていたのがセローニアス・マンクだったのです。見た感じも面白いし、聴いたこともないような音楽をピアノで弾いている……何これ? メロディもすごく変わっているけど、とにかく面白い。当時も僕はロックを聴く人間で、ジャズはそんなに詳しくないから比較の対象になるものもほとんど持っていなかったけど、この面白さは伝わりました。ユニークで、とても新鮮な音楽だったんです。
このときのテレビのマンクが踊っていたかどうかは定かではありませんが、この人は気分次第で立ち上がって踊ったりするんです。『ジャズ・ロフト』でも、バンドのメンバーにその曲のリズムを踊りで伝えるエピソードがありましたね。とにかく、普通のミュージシャンがやらないことをやるので、ちょっと変わり者のように思われてしまう人でもあります。彼の特徴というと、帽子がまた面白い。必ず何かしら帽子を被っているんですけど、これまた個性的なものばかり。また、映画『真夏の夜のジャズ』のマンクは、テンプルが竹で出来たサングラスをかけていました。1958年当時にオシャレなんてもんじゃない(笑)。身に付けるもの一つをとっても、極めて個性的な人だったんですね。
マンクが作る曲は、ハーモニーもリズムもどこか変わっています。『ジャズ・ロフト』に出てくるミュージシャンも語っていましたが、プロでさえマンクの曲が持つ“間”を正確に演奏するのは難しいらしいのです。あの感覚はどこから来るのか、本当に不思議です。他にはいないタイプのミュージシャンだと思います。
演奏スタイルも個性的で、ピアノの隣同士の鍵盤をよく弾くんですね。1951年にはブルー・ノートからアルバムを発表しているマンクですが、デビューから間もない頃は、そのことで評価を下げた評論家もいたようです。もちろん、その良さを理解していた人もいたでしょうが、一般的には不遇の時期もあったようですね。また、彼にはちょっとした災いがありました。ニュー・ヨーク・シティでは、お酒が出る店で演奏するためには、俗にキャバレー・カードと呼ばれる許可証が必要でした。マンハッタンやブルックリン、ブロンクスなどのクラブやバーでの話です。キャバレー・カードについては、やはり『ジャズ・ロフト』でも触れられていますが、そのルーツは戦時中だったそうです。酒場で気が緩んだ軍関係者の会話をスパイに聴かれるのを防ぐなどの目的で、犯罪歴のある人は演奏できないというルールを作ったんですね。戦後は廃止されてもいいはずのものだったわけですが……。1950年代初頭のあるとき、マンクは同じくジャズ・ピアニストのバド・パウエルと車に乗っていたんですが、バド・パウエルはヘロイン中毒だったので、いつもヘロインを持っていました。たまたま警察に止められるのですが、バド・パウエルは前にも捕まっているから今度は刑務所行きになってしまう。そこでマンクは優しくも、ヘロインを自分のポケットに入れるのです。警察がそれを見つけると、マンクは初めてだったためか、刑務所行きは免れますが、キャバレー・カードを取り上げられてしまうんです。だからマンクはそれから数年間、ニュー・ヨーク・シティのクラブで演奏できなかったんですね。当時のジャズ・ミュージシャンにとってこれは死活問題で、すごく可哀想な出来事でした。
マンクの手にキャバレー・カードが戻り、ニュー・ヨーク・シティのクラブやバーで演奏できるようになったのは1957年頃。有名なのがクラブ「Five Spot」での演奏です。数ヵ月にわたって出っぱなしだったマンクのライヴには、ジョン・コルトレインの姿もありました。マイルズ・デイヴィスのグループをヘロイン中毒のせいでクビになったコルトレインをマンクは気にかけ、自分のアパートにも呼んで音楽を指導するんですね。麻薬を絶とうと決め、音楽の練習に打ち込むコルトレインにとっても、マンクの曲は難しいけれど自分にとってのチャレンジにもなるから真面目に取り組んだと言います。まだ寝ているうちにアパートにやって来るので、マンクはベッドからそのままピアノに向かって教えていたとか(笑)。「Five Spot」での共演を経て、二人は1957年の11月にカーネギー・ホールでの公演を果たします。その模様は当時、ラジオで放送されたのですが、音源の所在は長く分かっていませんでした。それが2005年になって発見され、ブルー・ノートがアルバム『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall』(2005年)として発表しました。