Contents
◎Live Review
The Teskey Brothers
◎Featured Artist
Aretha Franklin
◎Recommended Albums
Aretha Franklin『I Never Loved A Man The Way I Love You』, 『Aretha Live At Fillmore West』, 『Young, Gifted and Black』, 『Amazing Grace』
◎PB’s Sound Impression
Aretha Franklin × LINDEMANN, iFi-Audio, Buchardt Audio etc.
構成◎山本 昇
Introduction
今日は検索エンジンやポータル・サイトを運営している「エキサイト」のカフェに来ています。社員専用のこうしたおしゃれなフロアがあるのはIT企業ならではという感じですが(笑)、イヴェントが開催されるときは一般の人も入ることができるそうです。そのうち、僕も何かできるといいのですが。
ところで、僕は先日、NHK FMの番組『小林克也の音楽グラフィティ』にゲストで出演しました。すでに放送されたから、聴いてくれた方もいらっしゃると思います。番組でも話題に上りましたが、小林克也さんの『ベストヒットUSA』は、僕もわりとよく観ていました。ただ、あの番組はチャートのカウントダウン番組で、ビデオを最後まで見せないこともあったし、それほど興味を持っていたわけではありません。僕がTBSで『ポッパーズMTV』の司会を始めた頃も、克也さんにお会いしたことはなかったんです。だから、克也さんが音楽にすごく詳しくて、本当はあの番組でもっと自由に選曲したいと思っていらっしゃったことも知りませんでした。まぁ、テレビ番組というと、出演者はプロデューサーの言うとおりにせざるを得ないものですからね。ラジオのほうは、やろうと思えば出演者一人でも番組を作ることができますけど。だから、僕もテレビは自由がない媒体というイメージがあったから、最初は断ろうと思ったんです。でも、結局は受けて良かったと思っています。ドクター・ジョンやライ・クーダーを、あの頃の日本のテレビで紹介することは『ポッパーズMTV』以外ではなかったでしょうから。後にあの番組を観てくれていた人から、例えばネヴィル・ブラザーズのことはあの番組で初めて知ったというような声をもらうことも多いです。彼らのようなミュージシャンも、日本ではなかなか紹介できなかったでしょうから、やっぱりやってみて良かったです。
さて、今日は先日亡くなったアリーサ・フランクリンについてたっぷりお話ししようと思っていますが、その前に僕が監修した本を紹介させてください。
ブラック・ミュージックの歴史を綴った『リズムがみえる』(原題:i see the rhythm)はアメリカで1998年に出版された絵本ですが、金原瑞人さんの翻訳で、サウザンブックス(Thousands of Books)という世界の本をクラウド・ファウンディングで翻訳出版している会社から10月に発売されることになりました。アフリカから始まって、ブルーズやジャズ、ラグタイム、スウィング、クール・ジャズ、ゴスペル、リズム&ブルーズ、ソウルなどの話が詩のような感じで語られています。細かい注釈もタイム・ラインのように付いています。とても綺麗な本で、親が子供と一緒に音楽を聴きながら読むといいかなと思える本ですので、興味のある方はぜひ手に取ってみてください。
Live Review
60年代のソウル・ミュージックを現代に甦らせる若手バンド
テスキー・ブラザーズのシークレット・ギグ
東京のあるライヴハウスで、テスキー・ブラザーズというオーストラリアの若いバンドのシークレット・ギグを観ました。1時間ほどのライヴでしたが、とてもいいグループでした。10年以上前に、メルボルンのあたりで結成され、最初はブルーズ・バンドとして活動していたそうです。バンド名のとおり、兄弟が一組入っています。いまはブルーズのほか、ソウルやファンキーな曲もやるんですが、若いのに、まるで1960年代後半のマスル・ショールズやメンフィスのようなサウンドで、ちょっと不思議なバンドです。ライヴでは、ホーン・セクションの男女二人が付いていて、音楽に厚みを与えていました。2017年に発売された彼らのファースト・アルバム『Half Mile Harvest』から「Crying Shame」を聴いても分かるように、本当に60年代のようなサウンドなんです。
こういう昔の音楽をいま、生で聴こうと思ったらもう70代の人しかいません。たまに日本にも来るけれど、歳を取るにつれ声量もなくなってくるし、やっぱり今一つなんです。彼らのような若いバンドがこうしたサウンドでライヴをやるのは、そういう意味でもすごくいいなと思ったんです。アメリカでも、もう少しファンキーな70年代の雰囲気を持ったグループとか、やはり古いサウンドをやる人がちょこちょこと出てきていて、なかなか面白い展開だと僕は思っています。
実のところテスキー・ブラザーズは「Live Magic!」にも呼びたかったバンドの一つなんです。ライヴのあとに、少し話すことができたのですが、ざっくばらんな感じのオーストラリアの若者でした。「地元にはこういう音楽が好きな人はどれくらいいるの?」と聞いたら、「そこそこいるよ」と言っていました。かれこれ10年ほど前からブルーズ・バンドとしてパブやクラブで演奏しているテスキー・ブラザーズは、最初はメルボルンの近辺で活動していたそうですが、最近は国内を広く回るようになり、これからは海外にも進出しようとしているそうです。ヒップホップに染まっているアメリカの若いリスナーがこういう古いソウルのサウンドを聴いてどう思うかは分からないけど、例えばテデスキ・トラックス・バンドの前座かなんかでツアーを回れば反響を呼ぶかもしれませんね。
Featured Artist
追悼特集 Aretha Franklin
「ソウル・ミュージックにゴスペルのフィーリングを誰よりも色濃く持ち込んだのがアリーサです」
8月16日に、アリーサ・フランクリンが膵臓癌で亡くなりました。公式にはしばらく発表されていませんでしたが、彼女がその病気を患っていることは、ずいぶん前から言われていました。このところ、あんなに身体の大きな人がものすごく痩せてしまっていたから、病気がかなり進行しているのかなと心配していましたが、発表されてからはあっという間に帰らぬ人となってしまいました。享年76歳というと、それほど若くもないけれど長寿でもないないといった感じでしょうか。
アリーサの黄金時代はというと、1960年代後半から70年代の半ばまで、だいたい10年くらいのもので、その後にもヒット曲はあるのですが、そんな彼女のいちばんの功績と言えば、「ゴスペルのフィーリングをソウル・ミュージックに誰よりも色濃く持ち込んだ人」ということに尽きるのではないでしょうか。1967年の春に、アトランティック・レコードと契約して最初に出した「I Never Loved a Man(The Way I Love You)」。僕を含めて、圧倒的に多くの人がこのシングルで彼女の歌を初めて聴きました。もう50年以上も前の話だから、いまでは想像しにくいかもしれませんけれど、あのような歌い方を、まだ誰も体験したことがありませんでした。当時はモータウンのこともソウルだと思っていたし、南部のソウルとしては、オーティス・レディングやウィルソン・ピケット、サム&デイヴといった人たちもいました。それよりも強烈なものがアリーサの歌にはあったし、耳にした人は誰もがものすごい衝撃を受けたと思います。そして、「I Never Loved a Man(The Way I Love You)」の2ヵ月後に出たシングルが「Respect」でした。これは、世界が全部ひっくり返ったような(笑)、そんな感じの出来事だったのです。
デビュー時から持っていたゴスペルの雰囲気
アリーサはアトランティックに移籍する前、1961年からの5年間はコロムビア・レコードに所属していて、けっこうな数のアルバムを出していますが、多くの人はそれをほとんど知らずに、アトランティックの最初のシングルでいきなり大スターになってしまったというのはいまでも不思議な話です。僕も、特にコロムビア時代のレコードを遡って聴こうとはしませんでした。CDの時代になって、ようやく聴くようになったんですけど、今回、ラジオでも大特集を組むために、それらをもう一度聴き直したら、コロムビアの頃のレコードもとてもいいです。例えば、「Today I Sing The Blues」は彼女が18歳のときの歌です。また、1963年のアルバム『Laughing On The Outside』に収録されている「Skylark」はジョニー・マーサーが作詞してホーギー・カーマイケルが作曲したスタンダードですが、これを聴いたセーラ・ヴォーンは、「この曲はもう歌えないわ」と言ったのだとか。まだ21歳の彼女ですが、それくらいすごい歌を披露していたんですね。
確かに、当時のコロムビア・レコードはアトランティックとは全く違う存在で、最も体制的で保守的なレコード会社でした。若者のため、黒人のためという発想はなく、白人の大人のためだけにレコードを作っているような会社として大成功を収めていたんですね。ブロードウェイのショーのサウンドトラックだとか、トニー・ベネットやペリー・コモなど、そういうタイプのレコードが多かったんです。そんな中、ビリー・ホリデイやカウント・ベイシー、ベニー・グッドマンらを発掘したプロデューサーの許に、アリーサのデモ・テープが届きました。伝説のA&Rマンと言われたジョン・ハモンドです。彼はそれを聴いて、すぐに彼女の素晴らしさに気付いて契約に至ります。
ジョン・ハモンドは当初、アリーサをジャズ・シンガーとして売り出そうとしました。もちろん、ジョン・ハモンドも彼女がゴスペルの雰囲気を持っていることはよく分かっていて、その味わいも確かに出ています。でも、コロムビア・レコードとしては、どちらかというとスタンダードな曲を歌わせています。時代背景としては、まだ1960年とか61年頃の話ですから、ビートルズもデビューしていないし、リズム&ブルーズという音楽をアメリカではまだ多くの若者が聴いていたわけでもありません。ましてやソウル・ミュージックなんて誰も考えてもいないという時代です。ただ、ジェイムズ・ブラウンやサム・クック、レイ・チャールズはすで活動していて、コロムビア時代のアリーサを聴くと、レイ・チャールズの影響を受けていたことが分かるし、彼女は子供の頃からサム・クックが大好きだったそうです。
アリーサのお父さん、C.L.フランクリンは牧師で、あのマーティン・ルーサー・キング牧師に匹敵するくらいアメリカの黒人社会では著名な人でした。彼はデトロイトに大きな協会を持っていて、ゴスペルのシンガーたちもよくやってきたと言います。このお父さんは社交的な人で、彼らを自宅に招いてパーティも開いていたそうです。そんな中で育ったアリーサはサム・クックにはかなり惚れていたようですね(笑)。だからサム・クックの音楽にも影響を受けていたのも間違いありません。
まぁ、そんなことでアリーサもいろんなアルバムを出したけれど、最初は売れなかった。黒人の歌手はまず、黒人のコミュニティで有名になって、少しずつそれ以外の層にも広がっていくというのが順当な売り方なんでしょうけれど、コロムビア・レコードには黒人コミュニティに対する宣伝の仕方が分からなかったんです。黒人たちが聞いているラジオ局とのパイプも持っていません。そういう発想すらないレコード会社だったから、とてもいい作品をいろいろと出しているんですが、結局のところ売れていません。1966年に、契約満了を迎えると、彼女の夫でマネジャーだったテッド・ワイトはほかのレコード会社にもコンタクトし始めます。
アトランティック・レコードへの移籍
第二次世界大戦直後の1947年に、ニュー・ヨークに誕生したアトランティック・レコードは、当時は零細インディ・レーベルで、コロムビア・レコードとは正反対の存在でした。アーメット・アーティガンとハーブ・エイブラムスンの二人が創った会社で、ハーブの奥さんが経理を担当していました。対して、コロムビア・レコードは大きな組織で、いろんな部署があるし、いわゆる大企業のようなピラミッド型の組織です。アトランティックは三人しかいないから(笑)、アーティストを見つけるのも、プロデュースするのも、すべて本人が行います。そんな彼らは最初から黒人リスナーにために、黒人の大人の音楽を作ることを目指していたんですね。ただ、最初に出したレコードはさっぱり売れなくて、2年くらい経ってからようやくヒット曲が出ます。スティック・マギーの「Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee」という曲で、これがけっこうロックン・ロールに近い感じのリズム&ブルーズのナンバーでした。1950年代に入ると、アトランティックはもっと若者が好むようなR&B専門の会社になっていき、次の世代のミュージシャンに影響を与えたレコードを無数に作りました。60年代になるとソロモン・バーグやウィルソン・ピケット、ドン・コーヴェイなどソウルの人たちも次々とアトランティックでヒットを飛ばしていきます。創設者の一人であるハーブ・エイブラムスンは歯科医でした。1953年には徴兵制度の下、彼は歯医者として従軍することになり、アトランティックを2年ほど離れます。その間、アーメット・アーティガンだけでは仕事ができませんから、『ビルボード』誌で記者をやっていたジェリー・ウェクスラーを雇います。彼はR&Bが根っから好きな人で、もちろんジャズやブルーズも聴いていて、黒人音楽の熱狂的なファンでした。その彼がプロデューサーとしての力をぐんぐんと発揮していきます。特に60年代のソウルの時代はジェリーがプロデュースした作品がたくさんある時期で、アトランティックにとっての財産となっています。
アリーサ・フランクリンがコロムビアを離れるかもしれないという情報を、ジェリーは仲良くしていたフィラデルフィアの女性DJ、ルイーズ・ビショップからの電話で聞きつけます。「アリーサはもう準備OKみたいよ」と告げる彼女に、「分かった」とジェリー。早速連絡して、ニュー・ヨークの事務所でアリーサとマネジャーの二人と話をして、その場で握手の契約に漕ぎ着けたと言います。
黒人の若者たちが好む音楽は常にストリートの雰囲気を持っていると言われますが、アトランティックのような売り方のノウハウを持っていなかったコロムビアは、そのストリートの雰囲気を全然理解していなかったことも災いしたのでしょう。当時のアリーサが憧れていたのが、かなりブルーズ寄りのジャズ・シンガー、ダイナ・ワシントンです。彼女のようなタイプの曲を歌いたいと思っていたようですから、アリーサのほうに特に不満はなく、売れていないということだけが不満だったそうです。アリーサがコロムビアと契約したのと同時期に、バーブラ・ストライザンドもコロムビアの所属となりましたが、バーブラ・ストライザンドのほうはどんどんヒット曲が生まれたり、アカデミー賞を受賞したり、華々しい活躍を見せていたのに、アリーサのほうは周りの人たちには素晴らしいと言われるけど、全然成功しないから、不満が募るのと同時に、自分はもうダメなんじゃないかという不安もあったそうです。
アトランティックで最初に出したシングルは「I Never Loved A Man(The Way I Love You)」なのですが、これは彼女の夫のテッド・ワイトが持っていた音楽出版会社に所属していたロニー・シャノンという作家が作った曲です。このデモ・テープを基に、ジェリー・ウェクスラーは彼女をマスル・ショールズのフェイム・レコーディング・スタジオに連れて行きます。そこでは少し前から、パーシー・スレッジの「When A Man Loves A Woman」や、ウィルソン・ピケットの一連のヒット曲もレコーディングされていて、アトランティックとしてはすごくやりやすい雰囲気のスタジオで、ミュージシャンたちも間違いなくアリーサと合うはずだとジェリーは思っていました。
そうして始まった「I Never Loved A Man(The Way I Love You)」の録音では、最初はこの曲のグルーヴが今一つ掴めなかったらしいのですが、誰かの提案でアリーサにピアノを弾いてもらったところ、その瞬間にグルーヴがビシッと定まったと言います。そこから一気にレコーディングは進んでいったそうです。実はコロムビア時代にもアリーサは数曲でピアノを弾いています。というのも、彼女は子供の頃からお父さんの教会で、クワイアーの一員として、もしくはソロで歌っていたんですが、1950年代、彼女が14歳のときに、教会で歌った録音がLPとして発売されているんです。もちろん、当時は特に注目されることはなかったでしょう。いまではCDで聴くことができるそのゴスペル・ソングを聴くと、驚くことに彼女の歌がその時点でほぼ完全に出来上がっていることが分かります。しかも、その録音はピアノを弾きながら歌っています。小さい頃から音楽の才能を発揮していた彼女にとって、ピアノの弾き語りは特別なものがあったようですね。
フェイム・スタジオに話を戻すと、そんなことで最初の1曲を初日に上手く録音できたので、軽くお祝いムードの中、お酒が振る舞われました……。
フェイム・スタジオで勃発した“事件”
しかし、アリーサも、彼女の旦那でマネジャーのテッド・ワイトも、お酒を呑むとちょっと人が変わるところがあったらしくて……。また、フェイム・スタジオのオーナー、リック・ホールは南部の男で頑固なところがある人物でした。バックのミュージシャンの一人とアリーサの夫の間で口論が始まって、アリーサたちは怒ってモーテルに引き上げてしまったそうです。その場にいなかったプロデューサーのジェリー・ウェクスラーに気を遣ってリック・ホールは事態を収拾しようとモーテルに駆けつけますが、説明を聞く気がないテッド・ワイトとまた喧嘩になってどうすることもできません。そのまま翌朝になると、アリーサとテッドはマスル・ショールズを後にします。困ったのはジェリー・ウェクスラーです。とりあえずシングルのA面はできたけど、B面の曲はバックの一部が録れただけ。このままではシングル盤が出せません。どうしたものかと頭を抱えるジェリー・ウェクスラー(笑)。
2週間ほど経った頃に、アリーサ側からようやく連絡があり、「録音を再開するのはかまわないけれど、あのスタジオにはもう二度と行かない」と告げられたそうです。ただ、アリーサとしては、マスル・ショールズのミュージシャンたちはとても気に入っているから、「彼らをニュー・ヨークに呼んでほしい」と。かくして、アリーサのレコーディングには、マスル・ショールズとメンフィスのミュージシャンたちが一つのチームになって、セッションのたびに毎回ニュー・ヨークにやってくることになるわけです。もちろん、最初のシングルのB面「Do Right Woman, Do Right Man」も無事に出来上がり、このシングルはR&Bチャートで1位を獲得する大ヒットとなりました。
それからしばらくは、彼女の出すレコードはどれもミリオン・セラーになるという不思議な展開を見せます。それまで何をやっても売れなかったシンガーが、いきなりこうなるんですからね。バックのメンバーは、ウィルソン・ピケットなどで演奏していたりして、彼らのサウンドが旬だったこともあるでしょうけれど、アリーサ自身の歌には、どんな曲を歌ってもオリジナルの印象が薄れてしまうくらいすごいものがあったんです。
最初のシングルはオリジナルですが、二作目のシングル「Respect」はオーティス・レディングのカヴァーです。オーティスのオリジナルは2年前に出ていて、そこそこヒットしています。この歌詞の内容はEvent ReportのVol.6でもお話ししたとおりで、まぁ、なんと言うか、それほど次元の高い話ではありません。ところがアリーサが歌うと、本人は特にそういう意識はなかったかもしれませんが、聴く人はものすごく高い次元のことだと感じることができたんです。それは、彼女が持っているゴスペル・フィーリングの成せる業かもしれません。でも、あの世代のゴスペル・シンガーは皆、それを持っていました。
クイーン・オヴ・ソウルの心の中
デイヴィッド・リッツが書いた評伝『Respect』によると、アリーサは自分が抱えている感情をなかなか露わにしない人だったそうです。特に、哀しみの感情はすべて内に秘め、人に語ろうとはしない。ただ、それが全部、歌に出る……。彼女の歌を聴いて、涙が出てしまうのは、普通なら素直に外には出せなくて溜められた感情が、すごい力となって歌に現れるという、どうやらそういうことのようですね。そうでなければ、あれだけのパワーは出てこないでしょう。
例えば大スターのコメディアンが、本当はすごく暗い人だったり、そういうアンバランスなことは人間にはよくあることですよね。人間の創造力、クリエイティヴィティはどう出てくるかと言えば、他のいろんな方法では出せなくて、ある一つの分野の能力だけが突出するのはよくあること。ある人にとってはそれが絵を描くことだったり、ある人にとっては歌を歌うことだったり。文章だったり、写真だったり、コメディだったり千差万別なのでしょうけど、アリーサの場合は極端なほど、歌の才能が突出しています。そんな彼女には、人に語りたくないことが人生の中にいっぱいあって、自分でも認めたくないから、そういう事実を忘れようとしていたんですね。その代わり、おとぎ話みたいなストーリーを頭の中で思い描いていたようで、それに合わないことを聞かれると「違う」と否定するくらい、哀しいことはすべて遮断してしまう人だったみたいです。
デイヴィッド・リッツはこの本を出す前に、アリーサの自伝をゴーストライターとして書きました。そんなに厚い本ではありませんが、彼女はOKを出していました。でも、デイヴィッド・リッツは語られていないことがいっぱいあると知っていて、全く満足していなかったんですね。というのも、自伝を書く前からいろんな人からいろんな話を聞いていたけど、本人はそれらの事実について何一つ語ろうとしなかったそうです。彼のほうはいてもたってもいられず、また取材を始めて今度はとても分厚い本を執筆しました。もちろん、この本にアリーサは全く協力していないし、出たときは激怒しました。まぁ、人に知ってほしくないことをたくさん書かれたら、怒るのは分からなくもないし、せめて死んでからにしてほしいと思ったかもしれません。ただ、僕みたいに誰よりも彼女の歌が好きな人間にとっては、どんなに彼女が他人に知ってほしくないと思うことも、それを知ることで、彼女に対する理解がより立体的になるというか……、心の中が少しは分かるようになったと思います。もちろん、実際に理解できているかは分かりませんけれど。
カヴァー曲でも発揮された競争心
アリーサは自分でも曲を作りました。面倒くさがり屋だったらしく、そんなにたくさんではありませんが、作るときはけっこういい曲を作りました。そして、アリーサは三人姉妹の真ん中で、お姉さんがアーマ、妹がキャロリンです。二人とも歌が上手でした。アリーサは自分の競合相手に対する競争心は大変なものがあったと言われています。アリーサがデビューした後、お姉さんのアーマがコロムビアの姉妹レーベルであるエピックと契約したとき、アリーサはものすごく怒ったそうです。つまり、自分より先に相手の曲がヒットしたらと思うと、もうたまらないものがあったらしいんです。アーマは曲を作らないけれど、キャロリンは作曲が上手で、彼女が作ってアリーサが歌った「Angel」は1973年にシングルとして出ていますが、ほかにもとてもいい曲があるんです。
アリーサはオーティス・レディングの「Respect」をはじめ、いろんなカヴァー曲を録音しています。例えば、今日持ってきた初期のベスト・アルバム『Aretha's Greatest Hits』(1971年)に入っているのもベン・E・キングの「Spanish Harlem」など、ほとんどがカヴァーです。「I Say A Little Prayer」はディオンヌ・ウォーウィックが歌って1967年に大ヒットした曲です。半年後、アリーサがこの曲を歌いたいと言ったとき、ジェリー・ウェクスラーらは、ディオンヌ・ワーウィックでヒットしたばかりだからダメだとたしなめるのですが、アリーサがどうしても歌いたいと言うので、編曲をかなり変えて録音したところ、作曲者のバート・バカラックでさえ、「ディオンヌのもいいけど、アリーサのヴァージョンこそ決定版だ」と認めざるをえなかった。それほど、すごい歌だったんですよ。
「Bridge Over Troubled Water」も、サイモン&ガーファンクルのヴァージョンが決定版と思うじゃないですか。でも、アリーサのを聴くと、あの曲をこういうふうに歌うこともできるのかと思ってしまう。しかも、彼女自身は楽譜が一切読めなかったらしいんですね。でも、どんな曲も一回聴けば覚えてしまったそうです。そして、オーティスもそうだったらしいのですが、編曲の才能にも恵まれていたようで、「こういうふうにやって」と、口頭で説明して指示することができたらしいです。だから、プロデューサーとしてジェリー・ウェクスラーが、エンジニアとしてトム・ダウドなどがクレジットされていますけど、実際にはアリーサ自身もそうとうプロデューサー的に関わっていたようですね。選曲もそうだし、自分の頭の中で、この曲はこういうふうにアレインジしたいということも全部分かっている。本当にすごい存在です。
ソウル・ミュージック初のコンセプト・アルバム
1967年から71年頃までは、チャック・レイニーやドニー・ハサウェイら一流のスタジオ・ミュージシャンたちと、ほとんど同じチームでやっていましたが、アリーサが今度は違うプロデューサーを立ててやってみたいと言い出して、クインシー・ジョーンズが担当することになりました。先ほどお話しした「Angel」が入っている『Hey Now Hey(The Other Side of the Sky)』(1973年)というアルバムがそうなんですが、ロサンジェレスを拠点としているクインシーはすでに映画やテレビの音楽制作など、いくつもの企画を同時に抱えている状態で、彼女のアルバムに専念することができなかったから、セッションはすごく長引いたようです。そのようにしてやっと出来上がったアルバムは、クインシーらしいジャズでもなく、リズム&ブルーズにもなっていない、どっちつかずの印象で、しかも、シングルにしてヒットしそうな曲もなく、ジャケットのアート・ワークもインパクトが弱かったり……。結局、シングルの「Angel」だけはヒットしたけれど、アルバムはさほど売れませんでした。アトランティックで築いたアリーサの勢いが、このあたりで一旦止まってしまうんですね。一度でもそうなると、それを取り戻すのはすごく難しくて、その後に出した何枚かのアルバムも、ときどきシングルがヒットしたりするけれど、ちょっともう難しいのかなと思うくらい、下火になってしまうんですね。
今日持ってきたもう一枚のアルバムは、1976年にカーティス・メイフィールドがすべての作詞・作曲・プロデュースをした『Sparkle』で、これは映画のサウンドトラックです。僕はこの映画を観たことはないのですが、ソウル・グループで歌う三姉妹の話らしいですね。そもそも、フランクリン家の人たちは、カーティス・メイフィールドのことを昔から知っていました。彼もゴスペルをやっていたし、公民権運動にも関わりのある人でしたからね。それで、カーティスがこの映画のサウンドトラックはもっとゴスペルのフィーリングを持った人に歌ってほしいと、初めはキャロリンに白羽の矢を立てます。一方、しばらくヒットに恵まれていないアリーサからすると、ジェリー・ウェクスラーに変わるプロデューサーを捜す中でアーメット・アーティガンに提案されたうちの一人がカーティスだったんですね。『Sparkle』の企画を耳にして、実際に音を聴いたら、これがまたとてもいい曲だったんです。でも、妹のキャロリンが歌う約束になっていることを知って、またもや彼女の競争心が頭をもたげて、姉妹ケンカに発展してしまいます。最後に判断を委ねられた牧師のお父さんは結局、アリーサに歌わせることを選びます。後に出来上がったアルバムを聴いたキャロリンは、納得はしたものの、悔しさは消えなかったそうですね。確かに、このアルバムはすごく良くできています。カーティス・メイフィールドが書くいい曲は本当にいいですからね。
アリーサのそれまでのアルバムはどんなに素晴らしくても、プロデュースしたジェリー・ウェクスラーも認めるように、アルバムとして作っていたわけではありません。カヴァーをしたり、曲を提供してもらったりして、曲がたまったらアルバムにして出すという感じで、あの時代のソウル・ミュージックは、だいたいそういうものだったんです。つまり、60年代のソウルはアルバムとして聴く必要はないんです。シャッフルしてもいいし、ベスト盤で聴いても全然問題はありません。そんな中、アイザック・ヘイズが1969年に『Hot Buttered Soul 』というアルバムを作ります。LPの中に4曲しか入っていなくてどれも長い曲ですが、これがソウルの世界で初めてのコンセプト・アルバムと言われています。1971年にはマーヴィン・ゲイが『What's Going On』を出しました。これも完全なコンセプト・アルバムですが、それに先がけて発表されたのがこの『Hot Buttered Soul 』なんです。カーティスはカーティスで、70年代に入ると『Superfly』(1972年)や、グラディス・ナイト&ザ・ピップス名義の『Claudine』(1974年)、ステイプル・シンガーズが歌った『Let's Do It Again』(1975年)などのサウンドトラックを手がけます。サウンドトラックもコンセプト・アルバムに近いものかもしれません。その意味で、『Sparkle』はアリーサ・フランクリンのキャリアの中で、初めてアルバムとしてまとまったレコードと言えます。アルバムも大ヒットしたし、シングルとして発売された「Something He Can Feel」や「Hooked On Your Love」もヒットしました。カーティスの手腕もさることながら、本気で歌っているアリーサの歌が素晴らしい。すべての力が結晶した傑作だったんです。アルバムが振るわない時期に久々のヒットが出たからみんな喜んだわけですが、かつての勢いを取り戻すことはできませんでした。
黄金期以降のアリーサ・フランクリン
アリーサは70年代の終わりにアトランティックを離れてアリスタと契約します。アリスタは、元はコロムビア・レコードの顧問弁護士として働いていたクライヴ・デイヴィスが社長を務める会社です。彼はコロムビア時代に1967年のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルでジャニス・ジョプリンに出会って衝撃を受け、いまこそロックの時代だと感じて、コロムビアでもロックをやらなければだめだと進言した人で、彼が方向転換させたことで、実際にそれ以降はコロムビアもロックのレコードを出すようになりました。クライヴ・デイヴィスはその後、コロムビアの社長にまで上り詰めますが、権力闘争の末に解任され、ベル・レコードに移るとそのレーベルをアリスタ・レコードと改めて一から起こし直しました。そこでバリー・マニロウやメリサ・マンチェスターといったアーティストを70年代の半ばから後半に送り出し、そこそこ成功を収めます。アリーサはその成功を見て、自分もアリスタが合っているかもしれないと感じていて、クライヴ・デイヴィスのほうも「待ってました」という感じで契約に至り、その後は長いことアリスタに所属します。
クライヴ・デイヴィスは、ジェリー・ウェクスラーのように音楽そのものをしっかりと理解している人というよりも、ビジネス戦略に長けた人でした。業界内の人脈もすごかったようで、そういうものを活用しながら、どうすればヒット曲が生まれるかという戦略を立てる力を持った人だったんですね。アリーサに関しても、どういうプロデューサーと組み合わせればヒット曲が生まれるかを考えながら、ルーサー・ヴァンドロスがプロデュースした「Jump To It」、ナラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースした「Freeway Of Love」などヒット・チャートにちょこちょこと顔を見せるようになり、80年代以降のブラック・ミュージックでもそれなりに健闘するようになるわけです。でも、アトランティック時代のアリーサを聴いている僕のような人間からすれば、いい曲もときどきあるけど、ちょっと物足りないというのが正直なところです。あのゴスペルに深く根ざしたソウルの歌い方は、60年代から70年代前半くらいまでの時代に最も合ったものだと、いまでも感じます。唯一、例外的だったのは、1992に発売されたスパイク・リーの映画『Malcolm X』のサウンドトラックです。ドニー・ハサウェイの「Someday We'll All Be Free」をアリーサが歌っているヴァージョンがあって、これは素晴らしいです。久々にちょっと身震いがするアリーサ・フランクリンの歌を聴いたと思いました。
アリスタでもヒット曲が出なくなり、そこを離れた彼女は自らのレーベルを作ります。そこでは、息子にプロデュースをさせたクリスマス・アルバムも出ましたが、中途半端な仕上がりでした。アリーサという人はまた、次々とあれをやりたい、これをやりたいと、アイデアはポンポン出すんですが、実現力が全然ないんですね。ビジネスには全く向いていない(笑)。病気を患った後も、スティーヴィ・ワンダーと一緒にアルバムを作るという話もずいぶん前に発表されていたんですが、それも実現しませんでした。
残念ながら、黄金期を過ぎると、先ほど触れた『Malcolm X』のサウンドトラックのほかにはこれと言える傑作はありません。ただ、例えばスティーヴィ・ワンダーにしても、1976年の『Songs In The Key Of Life』以降に傑作のレコードがあるかと言えばどうでしょう。でも、それまでにあまりにもすごい作品を作ってきたことが重要なのであって、マーヴィン・ゲイだって同じですよね。
アリーサは例えば、1975年頃から始まるディスコ・ミュージックを受け付けなかったそうです。周りの人は、ヒットがほしいなら、マーケットが要求する音楽を作らなければダメだとアドヴァイスをするけれど、本人は納得しないんです。こんなエピソードがあります。
チャック・ジャクスンとマーヴィン・ヤンシーという作詞・作曲コンビがアリーサにアプローチしたところ、これは私が要求するレベルの曲ではないと断ります。その後、この曲「This Will Be(An Everlasting Love)」はナタリー・コールのデビュー作となって大ヒットしました。アリーサが歌っていれば、おそらく彼女のもヒットしたに違いないけれど、ナタリー・コールがこれを歌ってスターの仲間入りを果たしました。また、ナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズもある曲でアリーサをプロデュースしようとするのですが、彼女がその曲を気に入らず、実現しませんでした。結局、その曲「Upside Down」と「I'm Coming Out」は、ダイアナ・ロスが歌って大ヒットしました。つまり、アリーサにも機会はあった。でも、自分でそれを逸してしまったんですね。
アリーサ・フランクリンは、ジョン・ランディス監督の映画『ブルース・ブラザース』(1980年)にも出演していて、この映画で初めて彼女を知ったという人も多いことでしょう。ちょうど彼女がアリスタに移籍した頃ですね。安食堂でエプロン姿で働いている彼女が、旦那役のマット・マーフィが仕事をほったらかしてライヴ演奏に行こうとするのを、アリーサが「Think」を歌いながら迫っていくシーンは迫力がありましたね。余談ですが、マット・マーフィもつい先日亡くなってしまいました。
Recommended Albums
スタジオ作品にライヴ・レコーディング……
アリーサ・フランクリンのお勧めアルバムは?
個人的には、アリーサのアルバムの中ではアトランティックの最初の1枚『I Never Loved A Man The Way I Love You』がやっぱりすごいと思います。そして、1971年の3月に録音されたフィルモア・ウェストのライヴ・アルバム『Aretha Live At Fillmore West』もいいですね。この頃のアリーサはシングルを出せばR&Bチャートの1位を獲得していましたが、ジェリー・ウェクスラーはもっと多くの人に聴いてもらうために、ロックを中心に聴いているヒッピー世代の白人の若者にアリーサ・フランクリンの存在を知らしめたいと考えました。そこで、彼女をフィルモア・ウェストに出演させることにしたんですね。ただ、それほど大きな会場ではないから、すでに大スターだった彼女のギャラをまかなえないので、アトランティックがその差額を出すことになりますが、大きな赤字は出したくない。そこで思い付いたのがライヴ・アルバムを作ることでした。そうなると、いつものツアー・バンドよりもいいミュージシャンを連れて行ったほうがいいだろうということなります。当時彼女の音楽監督を務めていたキング・カーティスのバンド、キングピンズからギターのコーネル・デュプリー、キーボードのトゥルーマン・トマス、ベイスのジェリー・ジェモット、ドラムズはバーナード・パーディ、パーカッションはパンチョ・モラレス、これに加えてメンフィス・ホーンズも参加し、スペシャル・ゲストとしてビリー・プレストンが呼ばれるという、ほとんどドリーム・チームのような素晴らしいバンドを結成させて3日間の公演を全部録音しました。それを編集したのが『Aretha Live At Fillmore West』というLPで、これだけでも十分に素晴らしいのですが、ずいぶん後になって、3日間のすべてを収録した4枚組のコンプリート盤も出ました。『Don't Fight The Feeling』という限定盤ですが、これはすごいです。まぁ、「そこまではいらないかなぁ」という人には2枚組のデラックス・エディションもあります(笑)。これは『Aretha Live At Fillmore West』にボーナス・トラックが13曲入ったもので、多くの人にとってはこれで十分かもしれません。でも、キング・カーティスのバンドも、日によって素晴らしい演奏を聴かせているので、僕にはそれが全部聴ける4枚組が必要でした。
アリーサの全アルバムの中で、いちばん売れたのは何でしょう。意外に思うかもしれませんが、ゴスペルのライヴ・アルバム『Amazing Grace』(1972年)なんです。ロサンジェレスのワッツにある、アリーサのお父さんの弟子でゴスペル界の超大物になっていたジェイムズ・クリーヴランドの教会でのライヴを録音したものです。ジェリー・ウェクスラーがチャック・レイニーやバーナード・パーディ、コーネル・デュプリーといった面々をリズム・セクションに起用し、大きなクワイアも入って説教もある、完全にゴスペルのアルバムですが、すごくいいアルバムです。その中で、マーヴィン・ゲイの『What's Going On』に収録されている「Wholy Holy」をアリーサがカヴァーしているんですね。ゴスペルとして作ったわけではないけれど、十分にそういう雰囲気を持った曲で、シングルとしても発売されました。このシングルの売り上げが今一つで、レコード会社も最初は心配していたようですが、アルバムが発売されるとあっと言う間にミリオン・セラー。アリーサのアルバムとして、最高の売り上げを記録しました。このライヴ・アルバムも、後に2日間の演奏すべてを収めたコンプリート・ヴァージョン『Amazing Grace: The Complete Recordings』が出ていますが、やっぱりそっちのほうを聴くのがいいと思います。
あとはベストものもいいと思いますが、先ほどお話しした『Sparkle』のほかでは、『Young, Gifted and Black』(1972年)にも、いい曲が詰まっています。
忘れられない、あのシングルの衝撃
ではここで、アトランティックの1枚目『I Never Loved A Man The Way I Love You』からタイトル曲を聴いてみましょう。このアルバムのエレクトリック・ピアノとオルガンはマスル・ショールズのスプーナー・オールダムですが、アクースティック・ピアノを弾いているのはアリーサ自身です。何百回聴いたか分かりませんが(笑)、もう完璧ですね、この曲は。みんなでお祝いにお酒を呑みたくなるのも分かります(笑)。録音は、おそらく「せーの」で、オーヴァー・ダビングもしていないと思います。シングルB面の「Do Right Woman - Do Right Man」はダン・ペンとチップス・モーマンの曲で、ワン・コードふうのオルガンもいい。この2曲と「Respect」のシングルは1967年に立て続けに出たんです。イギリスのシングル盤は写真も何もなくて、白い袋の中に入っていただけだったんですが、この年の夏休みに僕はたまたまイタリアを訪れていて、アドリア海側の小さな町のレコード屋さんで写真入りの袋に入った「Respect」のシングルを見つけて買ってきたのをいまでもよく覚えています。ちなみに、この曲のバック・ヴォーカルはアーマとキャロリンですから、三姉妹が一緒に歌っているわけですね。
『Sparkle』から「Something He Can Feel」も聴いてみましょう。いかにもこの時期のカーティス・メイフィールドという雰囲気が出ていますね。ところで、アリーサを手がけた歴代のプロデューサーの中では、以前から彼女に目を付けて、先ほどお話ししたような事件があったにせよ、マスル・ショールズに連れて行って、ゴスペルに近いノリで、彼女にピアノを弾かせたり、やりたいことが思う存分できる環境を作ったという意味でも、ジェリー・ウェクスラーの存在は大きかったと思います。
そして、ミュージシャンとしてのアリーサ・フランクリンのすごさを一言で言うなら、どんな曲でもそのエッセンスを吸収し、自分のフィルターを通しながら、恐ろしいほどの説得力で聴かせることでしょうか。もちろん、ほかにも素晴らしい歌手はたくさんいますけれど、そんな能力を持っている人はめったにおらず、彼女はその意味でも別格だったと思います。何しろ、「I Never Loved A Man(The Way I Love You)」という1枚のシングルで、ソウル・ミュージックの歴史を変えたわけですから。当時、僕はまだ15歳でしたが、ラジオで初めてこの曲を聴いたときはもう、「うわーっ!」という感じで(笑)。あのレコードから受けた衝撃を、僕は一生忘れることはないですね。
個人的には、アリーサのアルバムの中ではアトランティックの最初の1枚『I Never Loved A Man The Way I Love You』がやっぱりすごいと思います。そして、1971年の3月に録音されたフィルモア・ウェストのライヴ・アルバム『Aretha Live At Fillmore West』もいいですね。この頃のアリーサはシングルを出せばR&Bチャートの1位を獲得していましたが、ジェリー・ウェクスラーはもっと多くの人に聴いてもらうために、ロックを中心に聴いているヒッピー世代の白人の若者にアリーサ・フランクリンの存在を知らしめたいと考えました。そこで、彼女をフィルモア・ウェストに出演させることにしたんですね。ただ、それほど大きな会場ではないから、すでに大スターだった彼女のギャラをまかなえないので、アトランティックがその差額を出すことになりますが、大きな赤字は出したくない。そこで思い付いたのがライヴ・アルバムを作ることでした。そうなると、いつものツアー・バンドよりもいいミュージシャンを連れて行ったほうがいいだろうということなります。当時彼女の音楽監督を務めていたキング・カーティスのバンド、キングピンズからギターのコーネル・デュプリー、キーボードのトゥルーマン・トマス、ベイスのジェリー・ジェモット、ドラムズはバーナード・パーディ、パーカッションはパンチョ・モラレス、これに加えてメンフィス・ホーンズも参加し、スペシャル・ゲストとしてビリー・プレストンが呼ばれるという、ほとんどドリーム・チームのような素晴らしいバンドを結成させて3日間の公演を全部録音しました。それを編集したのが『Aretha Live At Fillmore West』というLPで、これだけでも十分に素晴らしいのですが、ずいぶん後になって、3日間のすべてを収録した4枚組のコンプリート盤も出ました。『Don't Fight The Feeling』という限定盤ですが、これはすごいです。まぁ、「そこまではいらないかなぁ」という人には2枚組のデラックス・エディションもあります(笑)。これは『Aretha Live At Fillmore West』にボーナス・トラックが13曲入ったもので、多くの人にとってはこれで十分かもしれません。でも、キング・カーティスのバンドも、日によって素晴らしい演奏を聴かせているので、僕にはそれが全部聴ける4枚組が必要でした。
アリーサの全アルバムの中で、いちばん売れたのは何でしょう。意外に思うかもしれませんが、ゴスペルのライヴ・アルバム『Amazing Grace』(1972年)なんです。ロサンジェレスのワッツにある、アリーサのお父さんの弟子でゴスペル界の超大物になっていたジェイムズ・クリーヴランドの教会でのライヴを録音したものです。ジェリー・ウェクスラーがチャック・レイニーやバーナード・パーディ、コーネル・デュプリーといった面々をリズム・セクションに起用し、大きなクワイアも入って説教もある、完全にゴスペルのアルバムですが、すごくいいアルバムです。その中で、マーヴィン・ゲイの『What's Going On』に収録されている「Wholy Holy」をアリーサがカヴァーしているんですね。ゴスペルとして作ったわけではないけれど、十分にそういう雰囲気を持った曲で、シングルとしても発売されました。このシングルの売り上げが今一つで、レコード会社も最初は心配していたようですが、アルバムが発売されるとあっと言う間にミリオン・セラー。アリーサのアルバムとして、最高の売り上げを記録しました。このライヴ・アルバムも、後に2日間の演奏すべてを収めたコンプリート・ヴァージョン『Amazing Grace: The Complete Recordings』が出ていますが、やっぱりそっちのほうを聴くのがいいと思います。
あとはベストものもいいと思いますが、先ほどお話しした『Sparkle』のほかでは、『Young, Gifted and Black』(1972年)にも、いい曲が詰まっています。
ではここで、アトランティックの1枚目『I Never Loved A Man The Way I Love You』からタイトル曲を聴いてみましょう。このアルバムのエレクトリック・ピアノとオルガンはマスル・ショールズのスプーナー・オールダムですが、アクースティック・ピアノを弾いているのはアリーサ自身です。何百回聴いたか分かりませんが(笑)、もう完璧ですね、この曲は。みんなでお祝いにお酒を呑みたくなるのも分かります(笑)。録音は、おそらく「せーの」で、オーヴァー・ダビングもしていないと思います。シングルB面の「Do Right Woman - Do Right Man」はダン・ペンとチップス・モーマンの曲で、ワン・コードふうのオルガンもいい。この2曲と「Respect」のシングルは1967年に立て続けに出たんです。イギリスのシングル盤は写真も何もなくて、白い袋の中に入っていただけだったんですが、この年の夏休みに僕はたまたまイタリアを訪れていて、アドリア海側の小さな町のレコード屋さんで写真入りの袋に入った「Respect」のシングルを見つけて買ってきたのをいまでもよく覚えています。ちなみに、この曲のバック・ヴォーカルはアーマとキャロリンですから、三姉妹が一緒に歌っているわけですね。
『Sparkle』から「Something He Can Feel」も聴いてみましょう。いかにもこの時期のカーティス・メイフィールドという雰囲気が出ていますね。ところで、アリーサを手がけた歴代のプロデューサーの中では、以前から彼女に目を付けて、先ほどお話ししたような事件があったにせよ、マスル・ショールズに連れて行って、ゴスペルに近いノリで、彼女にピアノを弾かせたり、やりたいことが思う存分できる環境を作ったという意味でも、ジェリー・ウェクスラーの存在は大きかったと思います。
そして、ミュージシャンとしてのアリーサ・フランクリンのすごさを一言で言うなら、どんな曲でもそのエッセンスを吸収し、自分のフィルターを通しながら、恐ろしいほどの説得力で聴かせることでしょうか。もちろん、ほかにも素晴らしい歌手はたくさんいますけれど、そんな能力を持っている人はめったにおらず、彼女はその意味でも別格だったと思います。何しろ、「I Never Loved A Man(The Way I Love You)」という1枚のシングルで、ソウル・ミュージックの歴史を変えたわけですから。当時、僕はまだ15歳でしたが、ラジオで初めてこの曲を聴いたときはもう、「うわーっ!」という感じで(笑)。あのレコードから受けた衝撃を、僕は一生忘れることはないですね。
PB’s Sound Impression
「ハイレゾで聴いくアリーサも、素晴らしかったです」
専門誌『BLUES & SOUL RECORDS』とコラボしたWebサイト
PB 今日はアリーサ・フランクリンの追悼特集をお贈りしましたが、場所を提供してくれたエキサイトは、雑誌『BLUES & SOUL RECORDS』と共同でそのWebサイト版を立ち上げました。ブルーズやソウル、そしてゴスペルの専門誌である『BLUES & SOUL RECORDS』には、僕もときどきコメントを寄せています。Webサイトを担当する土居充さんにそのあたりについて少し伺ってみましょう。どういう経緯でこのサイトを作ったのですか。
土居 この雑誌を発行しているスペースシャワーネットワークは弊社の兄弟会社でもあり、また、僕自身も10代の頃から愛読していたこともあって、ご協力させていただくことになりました。すでにバックナンバーは140号くらい出ていまして、熱いレヴューをはじめ、さまざまな記事が掲載されていますが、それを眠らせたままにしておくのはもったいないので、ぜひWebで残させていただきたいと思ったんです。
PB この雑誌はほとんど編集長の濱田廣也さんが一人でやっているようなものだから(笑)、Webのほうまでは手が回らないでしょうからね。
土居 Webのほうもいまのところ僕一人なんですけど(笑)。それはさておき、いまの若い人たちはネットを通じて、新しい音楽も古い音楽も同じように聴いているところがあります。ということは、若い人たちにも、『BLUES & SOUL RECORDS』が取り上げる音楽の需要はあるはずです。Web版では、そういった意味でも重要な過去のバックナンバーのテキストと新しい情報を併せて展開していきたいと考えています。エキサイトではこうした音楽も含めて、本当にいいものを扱っているコンテンツをご紹介していきたいと思っています。
PB 雑誌を手に取らない人も、何かのきっかけでWebで出会ってもらえれば嬉しいですよね。
土居 ちょっと検索してみたら、関連するミュージシャンもこんなにいるのかと分かりますからね。
PB それはいいですね。
土居 バラカンさんも先ほどご紹介されていたように、最近は若いミュージシャンがかつてのソウル・ミュージックにアプローチすることが見られるようになりました。イギリスのマイケル・キワヌカとかもそうですよね。
PB そうですね。アメリカでも、いまのヒップホップの人たちは、その親が70年代のソウルをリアルタイムで聴いていて、家にはレコードもあったりするんです。あるいはCDに買い替えているかもしれませんけど。実際に、ドニー・ハサウェイとかそういう人たちはヒップホップを作っている人たちにも崇拝されています。
土居 実は僕もヒップホップも大好きで、同じように70年代のソウルも大好きなんです(笑)。僕の周りもそんな人が多いですね。
PB あとはうちの息子みたいに、ヒップホップが好きで、そのサンプリングの元ネタを探るうちに興味を持つとか、そういうプロセスはかなりあると思います。
土居 そういう60年代〜70年代のソウルをDJで流す文化が日本にもまだありますしね。バラカンさんには、若い世代のためにも、そういう音楽をどんどん紹介していただきたいです。このカフェではイヴェントも行っていますので、ぜひバラカンさんにもご登場いただきたいと思います。
PB ここはDJイヴェントをやるにはちょうどいいサイズで、楽しそうですね。ぜひやりましょう。
時代の流れは超高性能でコンパクト
PB ところで、今日のオーディオ・システムはとてもコンパクトなのにすごくいい音でしたね。このスピーカーも、キャビネットはスピーカーユニットの口径と同じくらいの幅なのに、なかなか迫力のある音でした。
嶋田 バッフル面を大きくとらず、ユニットの音の純度を高めるのは最近のスピーカーの傾向ですね。このBuchardt Audio S400というスピーカーも、このように小型ですが、大きなスピーカーと比べて量感的にもあまり不足を感じさせない工夫がされています。音楽のバランスもよく、高域が妙に強調されていないところも気に入っています。
PB アンプやプレーヤーも非常にコンパクトですね。
嶋田 今日はDAコンバーターにiFi-Audioのpro iDSDを使って、ハイレゾもCDも、デジタル音源はサンプリング・レートをアップ・コンバートして再生しています。CDはDSDで1024倍にオーヴァー・サンプリングしていますが、そうすることで、テイストとして滑らかになって、アナログ的な実在感に振れていく感じがあります。しかも、pro iDSDは出力段に真空管を使用しています。今日聴いたアリーサのような音楽は特に、デジタル臭さはなくしたいですからね。オーヴァー・サンプリングと真空管という新旧の技術を組み合わせることで、アナログっぽいウォームな音を感じていただけたかと思います。
PB ハイレゾで聴いくアリーサも、素晴らしかったですね。
土居 パワー・アンプも、すごく小さいデジタル・アンプということで、聴く前はアリーサのイメージとは違うのかなと思いましたが、聴いてびっくり、めちゃくちゃいい音でした。
嶋田 ヨーロッパはいま、かつてのでかいオーディオは人気がなくなっていて、コンパクトな筐体サイズはマーケットの要求なんですね。今日のパワー・アンプとプリ・アンプは、まさにそんな要求に応える、ドイツのLINDEMANNのハイエンド・モデルをお持ちしました。
PB それも時代の流れですよね。
土居 この場所には普段、PA用のスピーカーが置いてあるんですが、今日のシステムはそれに比べてすごく小さかったので、大丈夫かなと思っていたのですが、こちらのほうが断然いい音だったので驚きました(笑)。
嶋田 こういう絨毯敷きの場所はなかなか鳴らしにくいところはあるんですが、今日もACOUSTIC REVIVEさんの天然水晶の粒子を充填したオーディオ用のアンダーボードなどを駆使してチューニングさせていただきました。
土居 水晶の粒子とか、僕は初めて見ました(笑)。
PB 僕にもその原理は全く分からないけれど(笑)、音が良くなるならいいんじゃない?
◎主な試聴システム
パワーアンプ:LINDEMANN musicbook:55
プリアンプ:LINDEMANN musicbook:25 DSD
DAコンバーター / ヘッドフォン・アンプ:iFi-Audio pro iDSD
アナログ・レコード・プレーヤー:TECHNICS SL-1200MK5
フォノ・イコライザー:M2TECH Evo PhonoDAC Two
スピーカー:Buchardt Audio S400 Smoked Oak
*LINDEMANN製品は、近日トップウインググループにより日本取扱予定。
*Buchardt Audio製品は、webサイトからの直接オーダーで購入可能。